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「雑草という草はない」のに小さな庭は雑草だらけ

よく聞く言葉です。昭和天皇の生誕120年と聞いてもピンと来ない。昭和が終わって30年ならもう少し距離感がつかめそうだ。

天皇は戦後は学者に退いた。きっと何でも一生懸命に取り組む人なんだろう。

天皇をしのぶ人も出かけるんだろうか。緊急事態宣言下ではあまり動きたくないけどね。間が悪い。失礼じゃないかな。

植物も名前を貰うと嬉しいのかな。人間の勝手な世界に迎えられたということで。名前がついて、滅ぼされたりしたら気の毒だ。

天皇の言葉には植物愛が溢れている。

名もなき植物を雑草と片づけないで、一つ一つの命に向かい合う姿勢、

民衆と一括りしない姿勢に通じる。

今の政権の姿勢。学術会議メンバーの任命拒否問題。説明もいい加減なまま。思い上がった自己本位の政権と、全く対照的で、なおさら天皇姿勢に感心する。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2021042800989&g=soc

「雑草という草はない」 生物学者・昭和天皇の姿―国立科博が生誕120年展

2021年04月29日08時21分

皇居の生物学研究所で標本を手にする昭和天皇=1986年

    昭和天皇が新種として発表した国立科学博物館所蔵のヒドロ虫類「ベイヤーウミヒドラ」の液浸標本(同館提供)

 昭和天皇(1901~89年)の生誕から、昭和の日の29日で120年。国立科学博物館(東京都台東区)の企画展「昭和天皇の生物学ご研究」では、1人の生物学者としての昭和天皇の姿が見て取れる。新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言を受け、5月11日まで臨時休館中だが、企画展は再開後に完全予約制で6月20日まで開かれる。

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 植物や昆虫など生き物に興味を持っていた昭和天皇は16歳の時、御用邸があった静岡・沼津の海岸でショウジョウエビを見つけた。海洋生物への関心を高め、特にイソギンチャクの仲間であるヒドロ虫類の研究に力を注ぎ、多くの著書も残した。
 側近の記録には学者らしいエピソードが残る。侍従長を務めた入江相政氏の「宮中侍従物語」によると、65年9月、昭和天皇が那須で静養中に侍従らが皇居・吹上御所周辺の草を雑草として刈ったと聞き、「雑草ということはない」と発言。「どんな植物でも皆名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草と決め付けてしまうのはいけない。注意するように」と話したという。
 同館の並河洋・海生無脊椎動物研究グループ研究主幹は昭和天皇の功績について、「分類学を現代までつないだ」と話す。大正から昭和初期にかけ、生物学の中で基礎研究で地味な分類学は学問として絶えかねない状況だったという。
 企画展では、昭和天皇が実際使った網や顕微鏡、ショウジョウエビやヒドロ虫類の標本など計238点を展示する。



 

野菜と果物の違い


NHKチコちゃんに叱られる」を久しぶりに観た。テーマが「野菜と果物の違い」だったから。

ガーデニングを楽しむ人には、雑草の見分け方~雑草と雑草で無いものの違い~は重要な関心事だが、野菜と果物も似たような側面がありそうだ。

家事・家計簿をやる人にも、野菜か果物かの仕訳問題で出てくる。皿井は嗜好品かという仕分けも加わる。

番組では、内容はすぐに忘れてしまったが、立場によって異なる捉え方をしているとだけ理解できた。

何かの基準・定義を作ると、必ず基準からはみ出す 存在が見つかって、面白いことになる。

最近のフルーツトマトって果物に近い甘さで驚くが、お値段を見るともっと驚く。下手な果物よりはるかに高いお値段だから。

庭でも、花を楽しむ、葉の色合いを楽しむ、収穫して食べたり、果実酒を楽しむ。目的によって意識も具体的な育て方も変わる。

家計簿の中では、基本食材か、贅沢品かで、仕分けして家計の健全化を図るし、一方では、栄養のバランスを見るために、食材の成分特性に注目して仕分けする考え方もある。

サツマイモは基本食材の野菜だけど大学芋やきんとんにすると嗜好品やぜいたく品(?)に入る。

アボカドはとても果物とは呼べそうにない。

何となくわかった結論は、目的によって柔軟に手段を考える必要があること。

先に、目的を決める。すると目的達成に適した方法論を考えることになる。目的が変われば、方法も変わる。知らぬ間に目的がずれてくると、いびつな方法論に固執する羽目になる。

継続性も大事だが、拘れば本末転倒、目的を見失うことになる。

話を戻して、「野菜と果物の違い」と聞いてきたら、その心を聞いてあげることが大事だね。番組ではバラバラを答えにしていたが、それは必ずしも正解と言えない。バラバラは如何でもいいと言うことではない。目的の数だけ方法があると言う方がより適切だろう。